昭和57年9月22日 朝の御理解 ●⑤ 【入力者:梶原佳行】
御神訓一、天が下に他人ということはなきものぞ
●⑤三代金光様のご時代に、有る宗教新聞の記者が、金光様に一問一答を試みた。金光様あなたは朝からここへずっとご奉仕なっておられますが、どういうことをお願いなさいますか、というて、まぁ質問を申上げたということです。したら金光様がお答えになって、「世界総氏子身の上安全を願います」と仰ったそうです。ね、金光様あなた一日ここにご奉仕になっておられますが、どういうことを祈られますかちいう、それに対して、「世界総氏子身の上安全、世界真の平和を願います」と仰った。
で、それは金光様、あまり大きなことですから、もう少し具体的にお聞かせ下さいち申上げた。したら「大は小をかないますから」と仰ったということです。ね、願うとか言うだけなら、誰でも皆さんもやっぱり世界総氏子身の上安全、世界真の平和を願っておられますと思いますけれども、その内容がね、大は小をかなえるほどしの内容でなからなければならん。●
今日の御理解に「天が下に他人ということはなきものぞ」と。あー、そうだろうなぁと。白もなからなければ黒もない。きなもない。ね、様々な人種が世界中にあるけれども、それは全部天地金乃神様の氏子である。と言う事が分っただけではつまらん。分ったらならその祈りというか、内容がどうなからなければならないかと。
まぁ世界総氏子身の上安全、世界真の平和をまぁ祈っておるだけではいけない。祈るからには、私は、そこにその祈りが天地に通う、天地に通づる祈り、願いでなからなければ、ただ唱え言葉だけであってはつまらんと思いますね。金光様が仰るように、大は小をかなえる。というほどしの、私はものでなからなければならんと思うですね。
そこで私はここ2、3日ぐらいあの、御理解を頂いてからこっち、えー、祈りの内容というか、言葉というか、少しかわって来た。今日も神様どうぞ、天地に還元が出来るような御用でありますようにという事を願います。ね、先だって、あの山本さんのところの霊祭、沢山なお金を使って霊祭が行われました。ありゃもう本当に、まぁ見事というより他にないような立派な式年祭でした。
沢山な金がかかりました。けれども、神様がそれを、天地への還元と仰せられる。ね、十万円よりも二十万円、いうならそれだけ天地に還元したことになる。天地に通ずるから、その御霊も助かる、また還元した者も還元としてのおかげを受けることが出来るというのです。
同じ、丁度久富繁雄さんの、御用を頂いて帰られた後に、お届がしてあったから、それをお届させて頂きましたら、やはり、その天地の還元ということを頂いた。朝の御祈念に参って、昼頃まで御用頂いて帰られる。ね、これ別にお供えしたわけじゃないけれども、自分の体をお供えしておられる。ははーこういうことも還元になるんだなぁと分かりました。
だから以来私は、ね、今日もどうぞ神様、天地へ還元の出来る、御用でありますようにと、神の機感にかなう氏子と言う風にいわれますが、神の機感にかなう氏子というのは、天地に日々還元の出来る生き方をする人だと思うですね。
私の今日一日の働きが、ね、世のため人のためにも、いうならば潤い、ね、助かる、光をもたらすことが出来るといったような働きになるためには、自分のただ我情我欲の為の働きであったり、ではいけないということになりますから、その内容をいよいよ深めていかなければなりません。
ですから、その私共は日々の、その御用の有り方の中に、様々な問題やら事柄があります。ただその問題やら事柄をいかに心に処理していくか、いかにそれを神愛として頂くかというところに稽古があるんです。一切神愛ともういっぺんに言うてしまえばそれまでですけれども、なら一切が神愛なら即そこにお礼が言えれるような、心の使い方というものが稽古されなきゃならんのです。
ね、今朝はとりわけこう目が薄くなりましたが、今日はこの一番前に座っておられる方の顔も何方か分からんです私は。あ、何時もあそこに座っておられるからあの人だろうとこういうぐらいなことで分りません。だからそういう時に、ありゃもういよいよこりゃ見えんごつ成ってきたではおかげにならんです。
今日の御理解じゃないけれども、やっぱり人間だから人情を使います。あー誰かきとる、誰がきとるとか分る。ね、( ? )であつかう訳じゃないけれども、人情が出てくるわけです。あー、今日は誰か参ってきとらんばいのという風に人情を使う。ところがこうやって、この皆さんの顔が見えませんと、それこそ一視同仁に見えるんです。ね、そういう心の使い方、稽古しとかにゃいかんです。
ね、私は昨日ある方のお取次ぎをさせて頂きました。が、今朝方からお参りをさせて頂いて、もうあの何時も御祈念が終わった頃参って見える方なんです。( ? )今、あの彼岸花がいっぱい咲いている。それで、(くらきり?)をしておられる方が2人おられるが、一人はね、さっさと釜であの、草を刈って行く時に、その彼岸花も切ってしまわられる。一人の人は、まぁ彼岸花のところだけ残してからこう刈られる。
なんか知らん、本当に何ともいえん、その、まぁ何とはなしに、まぁそのまぁ人の考え方というものをね、まぁ感じるというようなお届けがございましたが。( ? )親先生が全然外へ出られんから、あの彼岸花を見て頂きたいんですけども、直ぐそこまで出ると、いっぱい咲いてますからというのです。けれども、彼岸花がいっぱいこうそうですな、もう彼岸が、彼岸になったから、彼岸花がいっぱい咲いてるでしょう、外は。
昨日は、その事からだったでしょうか、その彼岸花を切って、ここへ持って来て下さっておる。それで、えー、まぁ彼岸花だけじゃないちゅうのでしょう、菊の花やら色んな草花も一緒にこう、持って来て下さった。せっかく持って来て下さったのだから、これをどう生け、どう見せてもらうかと思いました。ね。
やはりこれは、花の心得でもないと、ただいきなりに、ただこう、見るだけではつまりません。ね、そこに、花の心得がありますと、それは色々と生け方がね、いわゆるその約束に基づいて、その花を生ける時に、その花が花として生きてくる。ね、その人のいうならば真心も生きて来る。こちらも楽しい。
ですからね、私共日々、こうしておかげを頂かせてもらう時に、えー、もう一切神愛だからというような頂き方なんですけれども、なら一切神愛ならば、それをどう生かして、本当にお礼の言えれる心にするかと言うところに、稽古がいるんです。こりゃもう彼岸花、そりゃこうなんだ。そりゃ生け方で、その彼岸花が生きて来るわけなんです。
せっかくそれに添えてある。白の菊の花もまた生きてくるわけなんです。ね、ですからその生ける稽古、いき上げる稽古、それがいるんです。ね、もうその場、その場で有り難いというような答え、例えば私が、今日は皆さんの顔がこうやって見えない。ありゃもういよいよ見えんごとなったなというのではなくてね、おかげで、いうなら人間心を使わんで、一視同仁。に、まぁ今日の御理解で言うと見ることが出来る。いうなら一視同仁のお取次ぎが出来る。
という風に、もうこれは私の実感なんです。ね、あら、というよりもおかげでと頂く頂き方が有り難いでしょう。それには日頃です、やっぱり稽古しておかなければ、ね、むかっとしたとか、腹が立ったとか寂しかったとか、悲しかったとかという、いわゆるおかげのお要素を頂けない心を先に使うてしまうんです。
ね、一番始め、一切神愛という事が分かったならば、本当に神愛としてそれを受け止めれる、自由自在の心の使い方。いわばくノ一修行じゃないですけれどもね。自由自在に自分のいわば、その心を有り難い方へ、有り難い方へと使うていけれる稽古を、常日頃しとかなきゃならん。そこで、ならどういう花が来ても、どういう風にでも生け上げられるだけの構えをやっぱり作っておかなければいけません。
お互いが色んな願いを持ちます。大きな願いであればあるほどに、物理なものになってくる傾向があります。ね、世界総氏子身の上安全、世界真の平和達成の、これは間違いなしに、神様も喜んで下さるような祈りだと思います。けれどもその祈りが、中身がなかったら、うつる?のものであったら、それはいう、唱えたもとなえんでも同じことであります。唱えるからにはやはり、それだけの、ね、信心を内容のある祈りであり、いわゆる金光様じゃないけれども、大は小をかなえるだけの内容。いうならばそこに、自分自身の信心を確かめていかなければなりません。
ね、それにはね、私共の一々ね、一日のあり方の中にです、色んな問題もありましょうけれども、その御用そのものが、今日もどうぞ神様ね、天地への還元が出きるような御用でありますように、こういう頂き方になって来る時に、いわば寂しかったり腹が立ったりそげなことは段々なくなってくると思うです。
ね、いわゆる私はここ2、3日こう実感として、今日も一日神様のね、お心にかなう、いわゆる天地へ還元の出きるような心で御用をさせて下さい。そういう願いを持っておるから、今私が感じました、誰彼の顔の区別がつかないくらいにありますけれども、ね、いやおかげで一視同仁の、神の氏子としてのお取次ぎをさせて頂くことが出来る。これは私が、今朝、今実感したことなんです。
ね、だからこれがどのような場合であっても、私共がそういう、有り難い有り難いで受けていけれることの為に、皆さんどうぞ今日も一日天地へ還元できるような働き。世のため人のために本当に潤い、ね、その働きともなるおかげ。それには、いうなら、なるほど天地のこと、いうならば世界総氏子のことを願うならばです、まず一番、自分の身近な人。ね、まぁ親子であるならば親のこと。子であるならば親のこと。姑であるならば、姑のこと、姑のこと。一番まじ、一番近い人、まず自分の隣の人のことを祈る。そういう心も自然と出来て来ると思うんです。
ね、ほりゃ自分のところはおいといて、いかに天下国家のことをこう祈ったところで、それはちょっと可笑しい。今の金光様が仰るように、自分の家の庭先をね、はわく、清掃するでも、世界の一部を清掃しておると思えと、教えておられます。現金光様。ね、自分方前さえ綺麗になりゃよかという人はこうやって、はみちからして他所ん方にゴミをやってしまうようなことは、だからできません。
いわゆる世界の一部を清めておるんだと。そういう思いやら働きが出来てくる、私は信心生活。それを( ? )言うてです、今日も神様のお心にかなう、いわゆる天地へ還元の出きれる心。あり方にならせて下さいという祈りがね、そこに切実になってまいりまして、始めて世界総氏子、えー、「天が下に他人ということはなきものぞ」といったような実感のある、その祈りとも、またなってくるという風に思います。どうぞ。